豊中町誌より

 牛養生
 半夏生の前日、田植の労役に大役を果たした牛や馬を飼い主がつれて「血とり場」に集まり、過労のため悪血(濁った血)が宿っているとして、牛馬の足に針をさして悪血をとり、薬をのませたり、お灸(やいと)をすえたりしたという、牛養生とはこうした牛馬の保健を目途としたことから生まれている。

 唐の湖(七月一日)
 大潮の日で、この日の海の潮が全部入れ替わるのだと伝えられ、新しい潮を浴びると、健康で夏がおくれるとして、若い者は夜が明けそめるころから有明浜へ泳ぎに行った。海に行けない家族のために、主人などは海水を二升樽に入れて帰り、潮風呂をわかして家族をいれた。
 また、牛馬を飼っている農家の主人は、午前三時ころから牛馬を連れて室本の海岸などに行って潮を浴びせて洗ってやり、潮風呂をわかすための五升樽に入れた海水を牛馬の背にくくりつけて帰った。この日の午前中は室本中は室本街道は牛馬の列が続いてみごとであった。

 借耕牛(かりこうし)
 農村では田植と麦蒔の年間二回に大きな労働力が必要である。この地方では昔から主として牛を使用して耕転作業を行っていたが、水呑百姓では牛を飼うことができなかった。そこで、いつのころからか個人又は隣近所のグループで隣国の阿波から中前に借耕牛をして農耕作業をすますようになった。財田上の村戸川(猪鼻峠の宿場で四、五軒の旅籠があった)までは貸主が牛を連れてくる。仲人が借賃についての条件を相方に話し、納得の上で借主が大久保道(大久保甚之丞の作道)を通って牛をつれて帰る。田植時期は米六斗から一石二斗、秋は四斗から八斗程度であった。田植がすすんで半夏生には、借主が戸川の宿場まで牛をつれて行き貸主に返した。帰りの牛の弁当として、よまし麦を牛の荷肩に積んで帰す風習が行われていた。

 牛の神
 戦国のころ天霧城が落城したとき、香川信景の家来が比地大村の土井に落ち延びて来て住みついた。慣れぬ百姓仕事に精を出していたが、いつまでも武士の誇りを忘れることなく、田を耕すときも刀を差していた。あるとき田植の代掻きをしていたが、牛は舌を出して喘ぐばかりでなかなか思うように動いてくれない。この男は腹立ちまぎれに刀を抜いて牛の舌を切り落とした。牛が死ぬとまもなく土井に疫病がはやり出し不吉なことが続発した。これはてっきり死んだ牛の祟りだとばかりに、さっそく牛の神の祠を営んで牛の霊を慰めた。それからずっと牛の出産のときは牛の神さんに詣って安産を祈願していた。ところが終戦後まもなく土井の牛が十数頭引き続いて死ぬという大事件が起こった。牛の神さんを粗末にした報いだといい出して、総出で盛大なお祭りをした。それから毎年四月二十五日に天神さんといっしょにお祭りをした。

 鞍掛峠の道
 仁尾港は寛政年間から幕末まで、西讃の要港として三野・豊田両郡はもとより、琴平・善通寺・多度津地方や遠くは高松方面にまで、数多くの物資を集散する商業経済の港町として栄えていた。封建時代には各藩(京極藩も含)は自給自足の体制をとり、酒・醤油・酢・搾油等の水物の製造も一定量に制限し、業者を指定していた。仁尾町内には古くからこの特権をもった商工業者が多く、原材料や燃料の仕入れ、製品の販路のために、海陸の交通が整備されて「千石船を見たけりゃ二保にゆけ」とうたわれていた。当時仁尾の港には多くの荷船がかかり、町には商家が軒を並べて活気に溢れていた。
 豊中町から仁尾へ行くには、比地大への政本・小路から比地村の下司・成行・南郷を通り北郷から七宝山(志保山)を登り、鞍掛峠を越えていた。古老の話によると、昔の人たちは、朝早くから売物を荷造りし、天秤棒や馬の背中にそのを積んで仁尾まで運んだ。高さ一〇〇メートルの鞍掛峠にたどりつくと、馬の背の荷物をおろし、鞍を峠の茶屋の馬つなぎ場の木にかけて、馬を休ませた。峠の名前はそこから生まれたといわれている。峠の茶屋で一服して坂を下って行くと、仁尾の町並と仁尾港が一望のもとに見え、港への道の両側には店がたちならび、日常生活に必要な器具類・雑貨・水物・冠婚葬祭用品等すべての物品をまとめて買うことができたという。

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