江戸時代後期ごろから昭和の戦前まで、毎年春秋の耕作用の牛が徳島県から、讃岐山脈を越えて讃岐の農家に借られてきて使われた。これを借耕(かりこ)牛を呼んだ。讃岐は水田地帯が多く耕牛が不可欠であるが、小農が多く飼料用の草地も少なかったので、五ヘクタール程度以下の田畑耕作農家は、耕牛を飼わない家が多く(約五〇%は無畜農家であったといわれている。)、一方阿波は山地が多く水田が少なく草地帯が広いので、牛が多く飼われている上に畑が多く早く農繁期がおわったため、また、養蚕や、たばこの耕作が盛んになると、使い終わった牛を讃岐に貸して山地農家の少ない飯米を牛の労働力で補ない、貸賃を玄米で受取れたことからこの借耕牛を貸していたのであった。一人で四、五頭の牛をつれて徒歩で上西の相栗越や今の国道一九三号線の清水越などをして東讃に、美合う村(琴南町)の明神その地を経て西讃に数日間続いて入ったのは壮観であった。相栗越をした牛は内場から星越峠を経て、岩部にきてここで「中追い」と呼ばれた口元業者の仲介で、貸借契約をして讃岐側の農家の人々に借し渡された。そのため、岩部橋付近は多くの牛でにぎわい、飲食店や宿屋が繁盛した。いつごろからはじまったが、文政年間(一八二〇年ごろ)から次第に盛んとなり、明治後期から大正年間が最盛期であったらしい。麦カン真田やカマス織・養蚕などの副業の発達によって、讃岐の米麦ワラが大量に消費され、家畜用ワラが不足したのに従って、小農の牛の飼育がさらに減少したのが、盛大となった原因であった。 |